無理
2016年 04月 21日
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江雄
at 2016-04-21 21:36
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この石屋さんの「上から目線」の発言は、小生が最も忌み嫌うものです。魂というものはいかなるものなのかは、誰にも解らないし、人それぞれの解釈があると思います。
そんな魂というものを石仏に入れるというのは、あまりにも作為的で人為的なものであり、石仏には全くそぐわないものものだと思います。
小生のイメージでは、魂は、「行雲流水」すなわち雲が飛んで行くように、水が流れていくように、自由自在に漂っているものではないかと思っています。
とにかく無我夢中で作らせて頂く、邪心ばかり起こってなかなか無心になれないけれども、全身全霊をかけて作らせて頂く。そんなときにふっと魂が訪れるのではないかと思います。拙い陶芸をしながら、そんなことを感じます。
その石仏を見たら自然と手が合わさるようなときに、その石仏に魂が宿っていると言えるのではないでしょうか。この木っ端仏を見ながら、思わず手を合わせてしまいました。
「石仏や 魂(たま)はいづこに あるや否」
そんな魂というものを石仏に入れるというのは、あまりにも作為的で人為的なものであり、石仏には全くそぐわないものものだと思います。
小生のイメージでは、魂は、「行雲流水」すなわち雲が飛んで行くように、水が流れていくように、自由自在に漂っているものではないかと思っています。
とにかく無我夢中で作らせて頂く、邪心ばかり起こってなかなか無心になれないけれども、全身全霊をかけて作らせて頂く。そんなときにふっと魂が訪れるのではないかと思います。拙い陶芸をしながら、そんなことを感じます。
その石仏を見たら自然と手が合わさるようなときに、その石仏に魂が宿っていると言えるのではないでしょうか。この木っ端仏を見ながら、思わず手を合わせてしまいました。
「石仏や 魂(たま)はいづこに あるや否」
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山水
at 2016-04-21 23:48
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もともとこの石の中にいて 少しだけ手でなぜてやったら現れたようなわらべ地蔵さんですね
↓の今でしょのお地蔵さんよりこちらを好みますが私は・・
↓の今でしょのお地蔵さんよりこちらを好みますが私は・・
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audrey-gregory at 2016-04-22 05:57
私たちは何のためらいも無く仏教を先祖の宗教としています。
しかし驚くほどその内容を知らないままとらわれている。
一度、仏教徒呪縛から解き放たれて
素直に仏像と向き合っても良いのじゃあないでしょうか。
無心になって、無心で彫った仏像を見て、自然に手を合わせる。
いや、合わせなくても良いですから、理屈無しで向き合ってください。
人それぞれ、何を感じるか、感じないかもしれませんが、
それも有りだと思います。
しかし驚くほどその内容を知らないままとらわれている。
一度、仏教徒呪縛から解き放たれて
素直に仏像と向き合っても良いのじゃあないでしょうか。
無心になって、無心で彫った仏像を見て、自然に手を合わせる。
いや、合わせなくても良いですから、理屈無しで向き合ってください。
人それぞれ、何を感じるか、感じないかもしれませんが、
それも有りだと思います。
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audrey-gregory at 2016-04-22 06:09
山水さん、ありがとうございます。
荒取りをすると、握りこぶし程の欠けらがいっぱい出ます。
これも大事な石として彫らせていただきます。
手の中でひっくり返しながら、彫るところを探し、
ここぞと見つけたら、ちょっとだけ手を入れます。
稚拙でも出来上がると愛おしくなりますが、さっきまでは石片でした。
自分の彫った石に癒されるって変ですよね。
荒取りをすると、握りこぶし程の欠けらがいっぱい出ます。
これも大事な石として彫らせていただきます。
手の中でひっくり返しながら、彫るところを探し、
ここぞと見つけたら、ちょっとだけ手を入れます。
稚拙でも出来上がると愛おしくなりますが、さっきまでは石片でした。
自分の彫った石に癒されるって変ですよね。
by audrey-gregory
| 2016-04-21 15:00
| わらべ地蔵・石仏
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